
はじめまして、お越しいただきありがとうございます。
ANOKOTO終活デザイン事務所の矢内 康之(やうち やすゆき)です。
私が、終活事務所を始めたきっかけについて伝えたいことがあります。
ご興味がありましたら、ぜひ最後まで読んでいってくださるとうれしいです。
プロフィール
母親の癌の告知
私は当時、特に他の家庭と代わりのない1人暮らしの社会人でした。
理学療法士(リハビリの先生)として病院に勤務し、休日は実家に帰って母親の手料理を食べさせてもらってました。
そんなある日、LINEで父親から1通の連絡がありました。
「ちょっと報告することがあるから実家に来てくれる? 」
私はいつも通り実家へ…。
父親と母親は、深刻な顔で私に言いました。
「母さんが卵巣癌になった…」
再発と余命宣告
その時すでにステージⅣとなっており、全身に転移が認められる状態でした。
私は、医療従事者で普段病気や怪我をした方と接することが多いお立場でしたが、母親の状態を受け止めることができませんでした。
すぐに手術で卵巣を摘出し抗がん剤治療を開始。手術は成功し抗がん剤の効果もあってか癌細胞の数値は標準レベルまで下がりました。
しかし、2年後に再発し抗がん剤治療を。3年半後に再々発となりました。再々発が認められた時に、病院の先生から聞きたくなかった一言が…。
それは、余命の話でした。
母親の他界
母親の余命宣告後には、担当医からは一旦家に帰って生活をしても良いと言われました。
しかし、家の中では点滴を付けた状態で、食べ物もあまり食べられない状態での生活でした。
それでも、少しでも気が晴れるように数回ですが洗髪など外出もしました。
しかし、数日で緩和病棟へ…。
数日後、母親は他界しました。
悲しみと手続き
私たちの家族は、母親の癌告知から他界するまで、何度か死に対しての家族会議をしました。
母親とは今後必要になってくる手続きとその準備に対しても直接話し合いをしました。たくさん準備しました。
母親が就労中であったため傷病手当の手続き、生命保険の手続き、本人の治療に対する意思の確認、自宅で生活するために介護申請、考えたくなかったですが葬儀の準備、お墓のこと、喪服の購入、他界した後の手続き、遺品整理など、そのほか多くのことを「母親がもうすぐ他界する前提」で行いました。
そのため、これらはすべて悲しみと平行して行わないといけませんでした。
もちろん、そんなこと考えたくない気持ちが大きかったですが、すべてしなくていけないことだったんです。もちろん、これだけでは足りず母親の他界後も色々な手続きがありました。
同じ思いをしてほしくない
これは、後で知ったことですが私たち家族がしてきたことは、母親の終活の一部だったのです。
私や母親は終活を悲しみの中行いました。
もし、この終活をもっと早く行うことができれば、母親との時間をもっと違うカタチで過ごせていたかもしれません。
そのため、私は皆さんに私たちと同じことを繰り返してほしくはないと思い、理学療法士を辞めて終活をお手伝いさせていただく仕事をさせていただいています。
息子の気持ちでお手伝いさせてください
現在は、結婚して2人の娘にも恵まれて生活していますので、親の気持ちも子供の気持ちもわかります。
終活という言葉と知っておられて少しでも興味がありましたら、全力でサポートさせていただきます。
ぜひ私にお手伝いさせてください。
最後までお読みいただきありがとうございました。
デザイン事務所